加藤和也の玉川学園時代がヤバい! 不良となって高校を中退・・・

加藤和也の玉川学園時代 中退してから

美空ひばりは加藤和也の中学部の卒業式に出席した後、全国ツアー興行に出ていた。

が、脚の激痛と体調不良によって1987年4月21日に済生会福岡総合病院に緊急入院することになる。

加藤和也は6月に無期停学処分を下され、学校にも行けないので美空ひばりの入院先へ向かう。

美空ひばりが誰よりも愛している加藤和也が実は無期限停学処分をくらっていることは、周りの誰も知らせていなかった。

なので、加藤和也が直接、それを告げると美空ひばりは泣き出してしまったという。

小学生の頃の様に甘えることはしなかったものの、母の美空ひばりと供に過ごせることは嬉しかったという。

病室で久しぶりの親子団欒の時間を持てたが、しばらくすると学校へ行きたくなったという加藤和也。

病室にいる美空ひばりは容態は悪くなさそうに加藤和也の目にはうつっていたが、実は相当に悪化していたのである。

大腿骨骨頭壊死と肝硬変を患っていたが、肝硬変は仕事のストレスを発散する為に長年、飲んでいた酒が原因であった。

それは過去に美空ひばりの母と弟二人を二年おきに亡くした後に、一気に酒量が増えた為。

ヘネシーのブランデーを一日で一本半あけてしまうという無茶な飲みっぷりをしていたこともあったという。

そんな母・美空ひばりの重い病状を知った加藤和也は、本来、元気だからこそグレてあげれたのに、もうグレられない・・・と思ったという。

 

美空ひばりは8月3日に退院し、加藤和也は無期停学処分が解けた。

無期停学が何故、解けたのかと言えば、テストがあったからだという。

しかし、他の生徒と一緒に授業は受けさせられないということで、生徒の下校時刻が加藤和也の登校時間となっていた。

久々に受ける中間テストの出来は散々たるものであり、結果は数学0点、理科0点、国語7点、英語12点という最低の点数であった。

学校は嫌いではなかったが、既に学校側から見れば加藤和也は外れてしまった生徒である。

教師との距離も広がり埋まらないことを悟り、授業料も安くないわけで勉強しないならば通ってても意味が無いと悟る。

中退しようと思ったのは、中間テストが終わったころであった。

 

9月、夏休みが終わり学校生活がはじまったが、授業をさぼった加藤和也。

加藤和也は職員室に呼び出しをくらった。

無期停学処分が解けたばかりの立場で新学期に授業をすぐにサボるということに対して、高等部の中でも特に偉い教師が7人が加藤和也の前に並び、担任教師と供に向かい合ったという。

担任教師が加藤和也に『おまえ、謝った方がいいぞ。』としきりに言うが、加藤和也は頑なに拒んだ。

すると、偉い教師たちが色々と言い出したので、加藤和也はそこでブチ切れる。

なにごちゃごちゃ言ってんだ!やめてほしいのか、テメエら!

そう叫び机を蹴り飛ばす加藤和也を見て、唖然とする教師たちを尻目に胸ポケットから煙草を取り出して、その場で吸い出したのだ。

じゃ、もういいわ。やめてやるよ、こんなとこ。オレ、帰るわ。

ドアを蹴っ飛ばして、くわえ煙草で職員室を出たという。

 

この後、加藤和也は自宅療養中の美空ひばりに強引に高校を辞めてきたことを話して、将来のやりたいことを話したという。

最初は教師に謝るようにすすめた美空ひばりだが、実は加藤和也は音楽に携わって生きていきたいという気持ちが芽生えていたのだった。

その後、音楽学校に入るが長続きせずに、しばらくの間、レンタルビデオ店でアルバイトをしながら時間を過ごす日々を送る。

そして、立っているのもやっとの筈の美空ひばりの伝説のステージである『不死鳥コンサート』を目の当たりにして決意を固める。

16歳の終わりに加藤和也は『ひばりプロダクション』の副社長に就任。

それは決して美空ひばりが甘やかしたわけではなく、ある想いからくるものであったが、それは別の話。

おわりに

実際には加藤和也の玉川学園時代は非常に骨太なものであり、美空ひばりとの心理的なやり取りや周囲の状況などが克明に明らかになっている。

しかし、この記事はあくまで加藤和也の玉川学園時代、不良だったことにスポットを当てるコンセプトの元に書いたので、留意して欲しい。

参考文献:加藤和也著 2007年度作品 みんな笑って死んでいった より

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